
現代人の絶望とは、何でしょうか。
ぼくはそれは、
「古代ギリシャ以降に大きく花開いた物質文明が、一つの終焉を迎えつつあることをどこかで感じているにも関わらず、その次に訪れる文明の姿をまだ想像できないことにある」
と思っています。
科学は発達しました。
経済は発展しました。
便利な道具は次々と生まれました。
しかし、それらに比例して、人間は幸福になったのでしょうか。
もちろん、物質文明は人類に数え切れない恩恵を与えてくれました。
飢えを減らし、病を克服し、世界中の人々をネットワークで結び付けました。
ぼくは物質文明そのものを否定するつもりはありません。
しかし、その豊かさを追い求める過程で、生命は少しずつ、暗く、重く、冷たいものへと変質してしまったように感じるのです。
我所有する、ゆえに我あり
近代文明は、デカルトの
「我考える、ゆえに我あり」
という言葉とともに、主体としての「私」を確立しました。
人間は、自らの理性を拠り所に自然を観察し、分析し、そこから数多くの法則を見出してきました。
それは近代文明の偉大な成果です。
しかし、その世界観は現代に至る過程で、少しずつ別の価値観へと姿を変えていったように思います。
それが、
「我所有する、ゆえに我あり」
という世界観です。
お金を所有する。
家を所有する。
土地を所有する。
知識を所有する。
資格を所有する。
肩書きを所有する。
ブランドを所有する。
フォロワーを所有する。
現代社会では、「何を持っているか」によって、自分の存在価値を測っている人が少なくないように、ぼくは感じています。
これはすなわち、
「生命を量で換算する思想」
と言えるでしょう。
数字は、本来便利な道具です。
しかし、それが人間そのものの価値を測る尺度になった瞬間、生命は「比較される対象」へと変わってしまいます。
だから、この価値観の中で「不安を手放しましょう」という助言は、ほとんど意味を持ちません。
なぜなら、所有とは本質的に失われるものだからです。
財産は減ることがあります。
会社は倒産することがあります。
肩書きは定年とともに消えます。
健康も、若さも、いつかは失われます。
もし、自分の存在価値を所有に預けてしまえば、それらを失うたびに、自分自身の価値まで失われたように感じてしまいます。
だから現代人は、どれほど豊かになっても安心できません。
安心を求めて所有を増やすほど、不安もまた大きくなっていくからです。
そして、この世界では、
「どれだけ多くを持っているか」
は評価されても、
「ひとりの人間とどれだけ深い信頼関係を育んだか」
「どれだけ素晴らしい時間を共有できたか」
といった問いは、ほとんど価値を持ちません。
ぼくは、この価値観こそが、現代文明の限界だと思っています。
所有という幻想の先へ・・・
では、次の文明とは、一体どのような文明なのでしょうか。
ぼくは、それは物質文明を捨てる文明ではないと思っています。
物質を否定するのではありません。
所有を否定するのでもありません。
そうではなく、
「所有を、自己の存在価値の根拠としない文明」
です。
人は、お金があるから尊いのではありません。
家があるから尊いのでもありません。
肩書きがあるから尊いのでもありません。
生命そのものが、すでにかけがえのない価値を持っています。
そして、その生命は、決して孤立した存在ではありません。
太陽の光を受け、
大地に育まれ、
水に生かされ、
無数の微生物と共生し、
祖先から生命を受け継ぎ、
未来の子どもたちへ生命を手渡していく。
ぼくらは最初から、巨大な生命の循環の中に生きています。
にもかかわらず、現代文明は、「個」と「所有」をあまりにも強調してきました。
その結果、人は世界とのつながりを忘れ、自分を孤独な存在だと思い込むようになったのです。
だから、次の文明に必要なのは、さらに多くを所有することではありません。
ぼくらの「新しい教養」
自然と共鳴する。
他者と共鳴する。
祖先と共鳴する。
未来と共鳴する。
そして、自らの永遠の魂と共鳴する。
共鳴とは、世界を利用する対象ではなく、共に生きる存在として感じる能力です。
ぼくは、この「共鳴する力」こそが、人類が次の時代に身につけるべき、新しい教養なのだと考えています。
近代文明は、
「我考える、ゆえに我あり」
という主体を確立しました。
現代文明は、
「我所有する、ゆえに我あり」
という価値観を極限まで押し進めました。
そして、その先に待っている霊性文明では、
「我共鳴する、ゆえに真我あり」
という世界観へ向かっていくと、ぼくは思っています。
小さな自我への執着を超え、自分自身が大きな生命の一部であったことを思い出す道。
禅でいう無我。
神道でいう惟神(かんながら)。
仏教でいう縁起。
それらは決して、人間を弱くする思想ではありません。
むしろ、人間を宇宙の生命へと開いていく思想です。
ぼくは、現代人の絶望とは、今の物質文明に限界を感じつつも、次の文明の姿がはっきり見えないことにあると思っています。
だからこそ、希望もまた、次の文明の姿を少しずつ言葉にしていくところから始まるのではないでしょうか。
ぼくは霊性文明を、遠い未来の話とは思っていません。
今、目の前の一人の人間を数字ではなく生命として慈しむこと。
自然を、資源ではなく共に生きる仲間として見ること。
自分自身を、所有量で計るのではなく、生命そのものとして受け入れること。
その小さな実践の積み重ねが、やがて新しい文明を育てていく。
ぼくらが本当に超えなければならないのは、物質ではありません。
「所有こそが自己の価値を決める」という幻想です。
その幻想を超えたとき、人類は初めて、「生命に対する礼節」を中心に据えた霊性文明への第一歩を踏み出すのです。
そして、その第一歩は、もうすでに、ぼくら一人ひとりの日常の中から始まっているのです。