
「大人の定義とはなんだろう?」
最近、そんなことを、ふと考える機会がありました。
成人年齢を迎えた人?
仕事をしている人?
自分でお金を稼いでいる人?
結婚して家庭を持っている人?
もちろん、どれもひとつの答えだと思います。
でも、今のぼくにとって一番しっくりくる答えは、
「大人とは、作法を身につけた存在である」
というものです。
ここでいう作法とは、「世間体を気にしましょう」という話ではありません。
むしろ逆です。
ぼくは、世間体なんて、ぶっちゃけどうでもいいと思っています。
「あの人からどう見られるだろう?」
「世間から変な人だと思われないだろうか?」
「みんなと同じようにしておいた方がいいのではないか?」
そんなことに、自分の限られた時間を使いたいとは思いません。
生命時間は有限です。
だからこそ、どうでもいいことで無駄に消耗しないために、作法を身につける必要があると思うのです。
躾(しつけ)の本当の意義
たとえば、箸の持ち方。
別に、どんな持ち方をしても食事はできます。
変な持ち方をしているからといって、それが駄目というわけでもありません。
しかし、世の中には、
「あらあら、どんな親に育てられたのかしら?親の顔が見てみたいわ。」
と、箸の持ち方ひとつでマウントをとってくる人もいるのです。
ぼくからすれば、そういう人たちと関わる時間は、無駄の極致です。
だからこそ、子供の内に、正しい箸の持ち方を習得しておくべきなのです。
「箸の持ち方なんて自由だろう!?」
と、いちいち世間と戦うほどの時間は、ぼくらには用意されていません。
そんなところに自分の生命を使うなど愚の骨頂。浪費の極みだと思うのです。
ぼくは、躾とは本来、100%子どものために行うものだと思っています。
親の世間体のために、
「ちゃんとしなさい!」
と、子どもを押さえつけることではない。
そうではなく、
「こんなどうでもいいことで、お前の人生を削られるな」
と、社会を生きていくための基本的な型を手渡してあげること。
そうやって、子供の限られた生命時間を、その子にとって本当に大切なことに注げるように整えてあげること。
それが躾なのだと、ぼくは思います。
作法とは「共通項」である
そもそも、ぼくら人間は一人ひとり違います。
育った家庭も違う。
価値観も違う。
好きなものも嫌いなものも違う。
身体も違えば、考え方も違う。
そんな人間たちが集まって、一緒に仕事をしたり、生活したりしています。
当然、そのままでは摩擦が起こります。
だから人間は、長い歴史の中で「共通項」をつくってきました。
挨拶をする。
時間を守る。
約束を守る。
人の話を聞く。
必要な連絡をする。
お礼を言う。
自分が悪いときには謝る。
食事の作法を守る。
会社のルールを守る。
これらは、自分とは異なる他者と円滑に活動するための「共通項」です。
もし、この共通項がなければ、ぼくらは何をするにもゼロから交渉しなければなりません。
「どうして挨拶しなければいけないんですか?」
「どうして時間を守らなければいけないんですか?」
「どうして連絡しなければいけないんですか?」
もちろん、それらについて考えること自体は悪いことではありません。
しかし、毎回そこから始めていたら、仕事も生活も全く円滑に進まないでしょう。
だから、
どうでもいいところは、型に預けてしまえばいい。
ぼくは、それが「作法」だと思っています。
なぜ10分間の休み時間でドッジボールができたのか?
ぼくは今、本当に不思議に思うことがあります。
小学生のころは、なぜ、休み時間の10分でドッジボールができたのか……(笑)!
チャイムが鳴る。
友達を誘う。
中庭にでる。
ドッジボールをする。
教室へ戻る。
今考えると、意味がわかりません。
しかし、あのころは本当にそれができていました。
大人になってからは、そうはいきません。
10代の頃や、20代の頃なら、一晩寝れば回復していた身体が、だんだん回復しなくなってくる。
仕事場では責任も増える。
身体のケアも必要になる。
食事にも気を配る。
運動もする。
休息も取る。
必要なら、そのためにお金も使う。
そして、その中で勉強もする。
大人になるほど、自分という生命体を整えながら、同時に仕事の質を高めるために必要な時間とお金は増えていくのです。
放っておけば、世界は乱れていく
物質の世界には、「エントロピー増大の法則」があります。
物質化されたものは、放っておけば、少しずつ秩序を失っていくのです。
ぼくは人間の身体や生活にも、このエントロピー増大の法則を当てはめてみると、なかなかに面白い発見があると思っています。
例えば、同じ量、同じ質の食事をしていても、年をとるほどに同じ体形は維持できなくなっていく。
以前なら一晩寝れば回復していたのに、疲れが残るようになる。
部屋だって、放っておけばほこりが溜まり乱れていく。
仕事だって、現状維持なら質は下がっていく。
人間関係だって、何もしなければ少しずつ齟齬が生まれることがあります。
つまり、大人になるにつれて、
自然に乱れていく速度に対して、意識的に秩序を回復させるための時間が増えていくのです。
ぼくらは大人になると、誰しもこの「エントロピー増大の壁」にぶつかります。
「ああ、時間がもっとあったら……!」
大人にはそれがよ~く分かる。だから、子供に作法を手渡すのです。
何でもかんでも「自由だから!」と子供を放置して、その生命時間を無秩序のほうへ向かわせない。
子供はもちろん嫌がりますよ。だって元気だもん(笑)
躾をされる意味が分からない。
だから、水たまりにも飛び込むし、電車のシートに靴履いたまま昇るし、おもちゃ売り場で泣きわめくし、自由の女神より自由です(笑)。
でも、それだと大人になったらその子が苦労するのが分かる。
たかが箸の持ち方ひとつでも、大人になってから矯正するには多大な時間がかかる。
それを大人は身をもって知っています。だから何でも吸収しやすい子供の内に、それを身に着けさせるわけです。
そういう意味でぼくは、
作法とは、生命時間を守る技術である
と考えています。
挨拶くらい、さっさとする。
必要な連絡くらい、さっさとする。
箸くらい、普通に持つ。
時間くらい、守る。
そんなところで個性を発揮しなくていい。
そんなところで世間と戦わなくていい。
そんなところに自分の生命を使わなくていい。
どうでもいいところは、作法によって自動化してしまえばいい。
そして、そこで余った生命を、
自分が本当に学びたいこと。
自分が本当に創りたいもの。
大切な人と過ごす時間。
自分にしかできない仕事。
自分がこの人生で、本当にやりたいこと。
そういうものに使えばいい。
だから、作法は「生命に対する礼」であると、ぼくは思うのです。
そして、この「生命に対する礼」を身に着けている人間を、「大人」と呼ぶのではないか?
そういう風に、今ぼくは結論付けています。